四方の義民 栂野彦八翁

富山藩の赤字財政と四方の漁民 

 富山市四方は前田富山藩の領内ただ一つの漁港でした。町民の多くは漁師で、とれた鱈(たら)や鰯(いわし)、鰺(あじ)などを富山城下でふり売り(行商)して、その利益でようやく生計を立てていたのです。
 一方、農漁民等の苦しい生活にもかかわらず、この頃は全国的に風俗は華美になり、文化はみごとな花を開きましたが、施政は放漫になり大変な財政難に陥っていたのです。
 富山藩も、この頃多額の出費に苦しみ、これをまかなうために考えられた方法の一つが、魚のふり売りを禁じて魚市場で一括して売り、その利益から税金を取るというものでした。これは、たび重なる不漁や大火にあって困窮のどん底にあった四方町民を餓死させるほどの最悪の事態に追い込みました。
 そこで、寛正10年(1798年)当時の町年寄(町長)であった栂野彦八をはじめとする町役が郡奉行に嘆願した結果、一度は魚のふり売りが出来ることになりました。ところが郡奉行が替わり、湯原宗兵衛がその職につくと、今度は前にも増して厳重にふり売りが禁じられてしまったのです。そして、彦八翁等の再三の嘆願も頑として受け入れられなかったので、町民の窮状は手もつけられないくらいになってしまいました。

  

寛政10年6月 嘆願書の控え(栂野家蔵)

彦八翁決死の嘆願

 そこで、せっぱつまった漁民達300人余りが諏訪の森に集まり、天びん棒などを持って城下に向かいました。このことを知った彦八翁は、それでは関係した町民が極刑になるのは必死だからと一同を説得し、ただ一人意を決して単身郡奉行の屋敷を尋ね嘆願したが聞き入れられず、腹をかき切り、死をもってこの悪政に抗議したのです。ときに文化3年(1806年)12月19日のことでした。
 このことが富山藩主前田公に伝わるや、ただちにこの禁がとかれ、ふり売りができることになりました。

 かくて、彦八翁の尊い死によって町民は餓死からまぬがれたのです。町民は義民栂野彦八翁の徳をしのび救世主とも仰ぎました。そして一同の手によって町の東端、諏訪の森近くに彦八翁の石像が建てられました。漁民達は毎日行商の往きかえりに礼拝して祈りをささげるのでした。

栂彦翁の菩提寺・長福寺蔵 過去帳(四方一番町)

(右から5行目)同十九日 四方井本屋彦八其身 四十五歳

栂彦翁二百年祭

 それから90年ばかりたって祠を四方神社の境内にうつし、栂彦翁顕彰碑を建立し、彦八翁の御神霊を祀った神社を都賀比古神社と名づけ四方神社に合祀されました。
 毎年8月18日には祭礼が行われ、町の人々がこの都賀比古神社に参拝してその遺徳をしのぶとともに、にぎにぎしく踊りを奉納するのです。
 平成18年には義民栂彦翁自殉200年に当たりますので、一段と盛大に祭礼を執り行うための準備が進められております。

(正孫である安輝が祖父彦八を慕い残した肖像軸・栂野家蔵)